白い襞の渦

第六回徳島新聞阿波しらさぎ文学賞の最終候補に残った作品です。非常に残念なかたちで終了してしまった賞ですが、この掌編を行き場のないまま手元で腐らせるのは淋しいような気がしたので公開します。楽しんでいただけますように。

 

 胸底に陽炎がほのめいた。とはいえ、今は晩秋だった。

「その人ね、襟足のカットがすごく上手で、上手なんだけどくすぐったくて。いつも笑いをこらえてるの」

 若いころ、はしゃいだように香代子が言っていたのを思い出したのだった。

 そうでなくても調子が狂う。なんだってこの男は、こんな喫茶店におれを誘ったのか。埃っぽくかび臭い店内、照明といえば各テーブルに据えられたランプだけ。窓は緞帳みたいな分厚いカーテンで覆われ、壁のぐるりからは絶えずカチコチと音がする。大小の針時計がばかみたいにたくさん掛かっていて、老眼の目を細めてみればどれもあべこべの時間を指している。音楽はなく、他に客もない。男とおれと、ふたりきりだ。

 ほんとうに長いお付き合いで、亡くなられただなんていまだに信じられませんよ、と男はテーブルの上に置いた手指を組み直した。その手が、四十年以上ものあいだ香代子の髪を切り続けていたのだった。

 お話は伺っていました、妻が自分と出会う前からお世話になっていたとか。すこしばかり妬いたこともありましたっけ、とおどけたふうに言いながら、でもこうしてはじめて実際にお会いしてみるとなつかしいような気さえしますね、などと思いもしないことを適当に付け加えた。男の手の表情を盗み見る。やわらいでいた。老美容師に似つかわしくない、ささくれのひとつすらなさそうな形のいい爪が、あやまちのひとつも犯したことなんざありません、とでも言いたげな風情で、気に食わない。ぐいと持ち上げたカップの熱いコーヒーが喉元を過ぎても、陽炎のほのめきは嫉妬としてゆらいだままだった。

 それにしても、と男は言った、あのお方は結局かたくなに髪型を変えなかったですね。実際、香代子は髪型で冒険することは一切なかった。自分と出会う前からずっと日本人形みたいなおかっぱ頭だったのか、と訊きたくなったものの、おれの知らない香代子について教えられるのは癪だった。

 そう、ずっと同じ髪型で黒々としていて、額縁みたいに見えたもんですよ。笑みを含ませて返したあとに、その額縁の中で疲弊し老いていった小さな顔を思った。ニュアンスは違うものの、むかしそんな小説を読んだような気がする。――そういえば、あいつはいつから白髪染めをはじめたんだ? そんなことも知らなかった自分をあやしんだ。

 月に一度はお見えになりましたからね、髪を伸ばしっぱなしで来られたことなんてなかったですね、ありがたかったし、感心したもんです。

 そうか、どおりでいつも変わらなかったはずですね、とまたも笑いにまぎらわせながら、こいつはおれが見逃していた香代子の微細な変化を、細胞の入れ替わりをものにして、金を稼いでたってわけだ、と思った。いつのまにか脈打っていたこめかみにそっと触れると、手指の冷たさが沁みた。ふと考えた、こいつはどのくらいの体温、粘度でもって香代子のうなじを触ったのか。すこしばかり妬いたこともありましたっけ、というさっきの自分の言葉を頭の中で繰り返し、今やすこしどころじゃない、となるたけ鷹揚に見えるようにわざと大きく脚を組み替えながら言ってやった。いい女房でしたよ、でもね、男ってのは型にはまりながらもはみ出しそうな、ちょっとばかし危なっかしい女を好むもんでもありましてね、いや、我ながらわがままだとは思いますがね、そうでしょう。

 はは、そうでしたか、と乾いた声音で応えたきり、相手は黙ってしまった。膝の上に組んだ両手指を意味もなくあそばせながら、影になった相手の表情を見定めようと目だけ上げた。薄暗がりの中に、憎たらしいほど端正な鼻梁だけが浮かびあがっていた。こいつ、おれと向き合うのをやめて針の狂った時計たちを眺めてやがる。そう思うと同時に、秒針のせわしない音、おごそかにくぐもった長針の音が耳の中で入り乱れ、しまいには壁のどこかでぼんぼん時計が鳴った。

 しんそうのらんみたいな方でしたね。狭い店内にチャイムの残響がこもる中で、男はぼそりと言った。しんそうの……? 思わず身を乗り出して聞き返した。

 私ね、時たま散歩をするんです、いつも決まった道を通るんですけど、どこにでもありそうな古ぼけた、けれどどこか秘密めいた気になる家がありましてね、リビングと思しき一階がいつも薄暗いんですよ、それである日ひょいと窓を覗いてみましたらですね、奥の薄闇に垂れこめるようにして、でも一目見てこまめに手入れされているとわかる見事ならん、ええ、花の蘭です、白い立派なシンビジウムがね、まどろんでいるように見えたもんです。

 はは、と今度はおれが笑った、それがうちの妻みたいだったと? さっきまで冷たかった指先が、火をともされたように熱くなっていくのがわかった。私の家内、うちの奥深くしずかに咲いていた妻の手入れをこまめにしていたのが、ご自分だったと仰りたいので?……うぬぼれるな、と言いたくなるのをこらえた。

 まあなんですか、いい歳になっても黒電話のカバーみたくふりふりした服を好んで着てましたからね、花に見えないこともなかったですよ。ただ、とおれは皮肉を添えた、うちのひとり娘は反動か、男っぽい恰好ばかりしてましたねえ。

 ああ娘さん、と相手の手指が跳ねた。菜摘さんにも最近よくしていただいてまして、こないだ見えた時にはお母さまと同じような服装をされてましたよ、おどろきましたね。

 動揺を悟られたくなかった。

「お母さんの服、捨てるのもったいないし売っちゃおうかな」

 売れるもんか、と返したものの、菜摘はひらひらした洋服を車につめるぶんだけ詰めて、さっさと帰ろうとした。が、ふと思い出したように運転席の窓を開けて言った。

「お母さんが何も、なあんにも知らなかったって、本気で思ってる?」

 呆気に取られていると、菜摘は真顔のまま目を細めて窓を閉め、車を出した。よく晴れた日で、雲ひとつない青空にたったひとり放り出されたような気がした。

 あの一瞬のまなざしが、今まさに自分を貫いているように感じた。逆に、おれは二人のことを何も、なあんにも知らないで、どういう因果かこの男と向き合っている。わけがわからない。鼓動が乱れる。規則的な秒針の音にすがりたくなる。けれどどの時計に心音をあずければいいのかわからない。

 ――いま何時ですか、と訊きたくなったものの、自分はいまどこにいますか、と尋ねるのと同義であるような気がしたし、そんな弱みをこいつに見せたくなんかなかった。ふと左手首の腕時計を思い出して、ちらと目を落とした。二時十八分。なんの慰めにもならない。これこそが狂っているかもしれないのだ。

 娘はいま、どんな髪型をしていますか。思わず口をついて出た言葉にはっとした。

 男は訝しがるでもなく、ああ、数か月前からずっとお母さまと同じ髪形をオーダーされていますよ、とあっさり言った。不思議なものですね、鏡の中に亡くなったお母さまを見出そうとされてるんでしょうかね、でもなんだか、いびつなからくりですね、おいたわしい気持ちがまさってしまいます。

 いつだか菜摘が脈絡もなく宣言口調で言い放ったのを思い出した、香代子がいない時だった。

「私ぜったい結婚なんかしないから」

 どうしてだ、と訊くと、「お母さんみたいになりたくないから」とのことだった。どういう意味だ、と語気を強めると、ふいと顔をそむけた菜摘は背中ごしに言った。

「なんにも自覚なし? うける」

 おい、どういう意味だ、おい、と狼狽したおれの声に返ってきたのは、遠く部屋のドアが閉ざされる音だった。

 菜摘の部屋はあれきり開かずになったのかもしれない、という思いが頭をかすめて、そんなはずあるもんか、と思わず目を伏せたものの、自信がなかった。自分の知らないことを何もかも知っている男と、薄闇の中とはいえ向かい合っているのが耐えられなかった。

 ――もう、時間なので。そう言って席を立ってしまいたかった、けれど唐突すぎるし、そもそもいまが何時なのかわからない。腕時計も信用ならない。いつのまにか踏み込んだ深い時の流砂に呑まれてしまいそうな気がして、靴の中の足指を丸めた。じっとりとした汗でねばついていた。

 そうそう、鏡といえば、お気づきですか、この店の壁も鏡を使って奥行きのあるように見せてますね、ほら、ようく見ると……。男の指が示すほうに顔をめぐらせて目をこらすと、大小おびただしい時計の秒針が左回りに動いていた。

 はは、狂っちまいそうですね。うまく笑い声が出たと思うと同時に、またどこかで今度は鳩時計が鳴った。狂っちまいそうですね、にちょうどかぶさった間抜けな音が神経にさわった。男には笑い声しか聞こえていなかったようで、おもしろいでしょう、とうれしそうに、今度は上を指した。つられて顔を仰向けると、白くおぼろげな渦巻きが天井いっぱいに見えた。いえね、ここのマスターは画家を目指していたそうで、四国から単身上京してきたらしいです、でも、自分の才能がものにならないと早々に悟ってしまって、かといって帰郷もできず、故郷の渦潮、ええ鳴門の、あれを描いたきり絵画とは縁切りしたんだそうです、この店はさしずめ、捨て去りえないあこがれの墓場みたいなものですかね。

 適当に相槌を打つ脳裏に、香代子の額縁の中からおれを見ている菜摘が浮かんだ。刺すような目だ。皮肉な意趣返しのつもりか? それならばおまえ、なぜおれの目の前に現れない? どうして現れてくれないんだ? そもそもおれが何をしたっていうんだ、と思ったすぐあとに、声高に潔白を主張するってのはあらゆる罪業を自白するにも等しいんじゃないのか、と妙な考えが浮かんで、じっとしていられずコーヒーカップに指をかけた。すっかりぬるくなっていた。

 カップをソーサーに置きながら、教えていただけませんか、と言った。教えるって、何を……? と返してきた男はわずかに身を乗り出してきた。自分が何を知っていて、何を知らないのか、てんでわからないんです。そんなこと、と男は苦笑まじりに言った、私にだってわからないですよ、でも何をお知りになりたいので? そう問われて答えに窮した。

 おれだけが埒外だという気がした。香代子と菜摘とこの男だけが共有していた何かしらがあるはずだとは思うものの、それをどう尋ねればいいのかわからない。くすぶっていた嫉妬の火だねはいつしか消えていた。自分をたしかめるように、手のひらで頬を擦った。ざらざらと火照っていた。香代子は、妻は、私のことを愛していたんでしょうか。ちゃちな愚問が喉までこみ上げた。飲み下そうとしてふたたびカップを持ち上げたものの、舐める程度にしか残っていなかった。口につけるでもなく、むなしく手を下ろした。

 妻は最後の最後まで、私に傷ついてくれてたんでしょうか。うわごとのように言って我に返った。男はただ、相手を損なわない愛なんてありゃしません、と答えにもならない返事をしたきり黙ってしまった。

 右回りの時計たちは香代子の不在を、鏡に映った左回りの時計たちは菜摘の抗いを絶えず刻んでいる。秒針の音の渦に呑まれそうになる。いっそ身を投じてしまったほうが楽になれるんじゃないかという気がしてくる。渦の白い襞にからめ取られながら行きつく先は……?

 ――からくり時計のほがらかなオルゴールの音に瞼を開けた。やわらかくなつかしい匂いを耳で嗅いだような気がして、思わず首をめぐらせた。どうされましたか、と言う男に、もう時間なので行かなきゃなりません、と淀みなく返した。そうですか、と男は手を差し出して言った、どうかお元気で。どうもありがとう、とその手を握ると、相手もそれなりの哀傷を抱えているのがわかった。どうもありがとう、と繰り返して、店を出た。

 

 外光に目が眩んで、立ち尽くした。どこへ行けばいいのかわからなかった。迷いのない足取りで往来をゆく人々を、不思議な気持ちで眺めた。ふいにうしろからぶつかられてよろめき、踏みこたえた足のたしかさが意外だった。すみません、と追い越していった若い男の背中から視線を上へ向け、空を仰いだ。まったき青が沁みた。視界が滲んだのはそのせいかもしれなかった。湿った目をしばたたく視界の隅に、見覚えのあるレースの裾がひるがえったような気がした。追いかけようとしてためらった瞬間、つむじ風に吹かれて汗が冷え、身震いした。おれは冬の入口にひとり、なおも立ち尽くしている。