2019年に、自分の十年後を想像して過去の自分から観察するような気持で書いた小説です
晩秋だからだろうか、ベルの視界に音もなく飛び込んできた羽虫の動きはやけにのろかった。最後の力を振りしぼって飛んでいるのかな、とも思った、が飛ぶというよりはゆるく浮遊しているようにも見えるその小さな黒の一点がなんだかじれったくなって、ベルは素早く手を伸ばして握りつぶそうとしたものの、それをよける俊敏さだけは一丁前のようだった。というか、ベルが手を伸ばした瞬間、手品みたいに羽虫は消えた。手のひらに捕まったわけでもなく、またふわふわと飛ぶわけでもなく、忽然と。――飛蚊症かな、とベルは目をしばたたいた。それにしても、と彼女は思う。動物でも飛蚊症にかかるものなのかな。
そもそもベルは、自分が人間として飼われているのか、それともペットとして飼われているのかわからなかった。ベルという名前自体あの女が勝手につけたものだった。もか、まろん、めあり、ここな、まあそういった類の名前を遍歴し、それぞれの役割をとくべつ苦もなくこなしてきたベルにとって、その時どきの名前などはひとつの記号のようなもので、別にアイデンティティを揺さぶられるだとか、損なわれるだとか、そういったことは考えたこともなかったし、どうでもいいことだった。何者かになりたい、自分は何者かになれるはずだ――そう信じて心をすり減らしている人間たちの気持ちなど、ベルには理解できない。ただの器としての身体がある、それ以上に、何を望むのか。
そんなベルだから、あの女に飼われるにはうってつけかもしれなかった。
今朝、あの女は家を出る前に言った。
「いい? ベルちゃん、今日の課題図書はこれ。一文一文舐めるように読んで、身体に染み込ませて。意味なんて考えなくていいの。感想もいらない。だからね、今日もこれ読んだらね、ほら。お弁当食べていいからね。鶏そぼろのご飯だよ、ベルちゃん好きだよね、ご飯粒ひとつ、そぼろの一粒も残しちゃだめだよ、お野菜もちゃんと食べるんだよ、そしたらね、お弁当箱ピカピカになってたらね、今夜もいっぱい、いっぱいしてあげる」
薄手のトレンチコートにストールを巻いて、ベルがいるケージの中に弁当箱を置く女を見て、ベルは、今は晩秋らしい、と思ったのだった。
女の留守中も、この部屋は快適な温度と湿度が保たれているし、ケージの出入りも自由。首輪を鎖でつながれてはいるものの、最低限トイレへ行くには不自由がない。好きな時に寝て、食べて、排泄する。それと同じように、かつてあの女がひとりでせっせと書いたらしい馬鹿げた文章を読む、というか字面を追い、夜、帰ってきた女に愛撫され、露を落とす。それはベルにとってすこし気持ちのいい排泄に過ぎず、なのにあの女は舌の先まで力をこめ、その一滴すらこぼすまいと一生懸命がんばる。ベルはおかしくなって、女の髪を掴み、さらに舐めやすいようにその顔を股へと押し付けてやりたくなる時もある。結局、とベルは思う。結局、この女は、あの男たちと同じように、私を自慰の道具にしているに過ぎない、それとも。ただプリントアウトして黒い紐で綴じただけの、お粗末な、本とすら言えないような作品群、らしきもの、それらを濾過するものとして私の身体が使われてるのかな。――まあベルにとってはそのどちらでもよく、どうでもいいことだった。中身を求められず、ただの容れ物として扱われること、それが何より楽だったから。
いつもの時間に帰ってきた女は、今日も空っぽの弁当箱を見て、満足したようだった。
「えらいねえ、ベルちゃん、何も残ってなくて、しかもピカピカだよ。きれいに舐めとってくれたんだね」
そう言ってベルの頭を撫でた。
どうやら女の中では、米粒はおろかソースやドレッシングの類も残っていない弁当箱を見ることは、ベルが女の小説を一字一句それこそ舐めるように読んでくれた、という妄想に変換されているらしかった。そうとでも思わないと死んでしまうのかもしれなかった。
もちろんベルはちゃんと読んでなどいない。ある日の弁当に入っていた野菜のあんかけがおいしくて、残したくなくて、弁当箱をぺろりと舐めた。そのまま、気まぐれに舐めまわした。その日帰って来た女はピカピカになった弁当箱を見ると、一瞬固まった。弁当箱から目を離さず、「すごいねえ、ベルちゃん、今日もちゃんと読んでくれたんだねえ」とすこし上ずった抑揚で、半ばうわごとのように言った。それ以来、ベルはこのささやかなサービスを欠かさない。
「すこし気持ちのいい排泄」を終えると、女はベルの身体を洗ってくれる。いつものように浴室の椅子に腰かけ、前かがみになって髪を洗ってもらいながら、ベルは女の素足を見つめる。分厚くて、ひび割れそうなほど乾燥した爪。特に小指の爪は摩耗したみたいにちょこんとくっついているだけで、黄色く濁っている。――とはいっても、裸なのは足と手だけだ。女はベルの前では化粧も落とさず、着替えもかくれてこそこそと済ましてしまう。毎日こうして身体さえ洗ってもらいながら、ベルは女の裸を見たことがない。
べつに二回り近く上の女の裸とか素顔とか、ベルは見たいわけではない。ただ、自分がこうしていつも裸をさらしているのはなんだかほんとうに動物園の動物にでもなったような感じで、しかも飼育員も観客もあの女だけ。そう考えるとおかしくなってしまう。
髪をドライヤーで乾かしてもらいながら、ベルは鏡を見つめる。奥に、女の顔が影になっている。この、小説家になり損なった、孤独な、何にもなり得ずに歳だけ取った女。妻にも母にもなり得ず、こうしてひとりぼっちで自分を飼っている女。私が舐めるように読んだ、と思い込んでいる小説の冊子を、ひとつずつケージの中に積み上げて、ほんとうに無駄に私の寝床を日ごと狭くしている。気ちがいだ。狂ってる。――と、そう思いながらも、ベルはよくなついた動物みたいに、おとなしく女に髪を梳られ、頭を撫でられ、やがて身体を丸めて眠ってしまう。
……その寝姿を、深酒にどろりとした目で眺めている女の表情をベルは知らない。そのあらゆる感情の波が凝った瞳に、首をつながれた自分の裸体と、積み上げられた冊子の山がどう映っているのかを、ベルは知らない。
揺り起こされた時、ベルは相手がいったい誰なのか一瞬わからなかった。興奮に濡れた目の周りは落ちくぼんでいて、黒ずんだ唇は歪んでいた、が泣きたいのか笑いたいのかはわからなかった。
「ねえベルちゃん、もうね、ベルちゃんに読んでもらう本、なくなっちゃったの。ねえ、どうしようねえ、ほんとうに、ぜんぶ、何もかもなくなっちゃった。どうしようねえ、こんな、山みたいな紙くず」
いかにも柔和そのものの仮面を貼りつけたようないつもの女の顔が全体的にどす黒く、引きつっていた。ケージの中を見渡すその顔に、隠しようもない老いと疲弊がありありと見えた。
ベルは反射的に外へ這い出ようとした、が女に首をつかまれた。同時に、首輪をつけられていることを思い出した。
「ねえ、どうしようねえ、こんな紙くず、燃やしちゃったらいいのかな、ね、ベルちゃんどう思う?」
ベルが応える前に、女はマッチを擦り、冊子の山に放り投げた。電気を点けたままの部屋が、ぱっとひときわ明るくなった。
パチパチと音がしはじめて、女は徐々に大きくなる炎を瞳にうつしながら、またベルの首をつかみ、ねえ、ねえベルちゃん、と呼びかけてくる。見て、燃えてるよ。燃えてるの、あれ、私が書いたやつなの。燃えてるねえ、燃えて当然だよねえ、ねえ、あんなことやこんなこと。
その口角には、興奮のためかこまかなあぶくが噴き出ていた。義務か義理か同情か、ベルはその泡を舐めとろうかな、と一瞬だけ思った、が動物としての本能か、逃げなければ、とすぐに思い直して身をひるがえそうとした。その耳に、いいよ、と女の囁き声が聞こえた、ような気がしないでもなかった。
炎が大きくなるにつれ、女の手の力は抜けていくようで、ベルはその狭間から逃げ出そうとした。ケージの小さなゲートをくぐって、文字通り這い出た、がやはり鎖と首輪ははずれない。それこそ束縛から逃れようとする動物みたいに、ベルは四つん這いのまま首で鎖を引っぱった。繰り返していると、部屋のどこかでぼんっと何かが弾けた。同時に、前のめりに倒れそうになった。解きはなたれた合図だった。力を得たように、久しぶりに二本の脚で走りながら玄関わきに掛けてあった上着を引っつかみ、ドアを開けた。
一歩外へ出て、背後でドアがばたんと閉まると、ベルは不思議と平静を取り戻した。アパートの階段を照らすむき出しの蛍光灯があえぐように点滅している。不思議と寒さも感じず、呑気に一歩ずつ下りていくベルの視界に、また黒の一点がふっと泳いできた。あの女が燃やしている冊子から逃れてきた一字なのかもしれなかった。ベルはたわむれに手を伸ばし、握りつぶし、ぺしゃんこになった文字をぽんぽんと払った。同時に、また名前を失くしちゃったな、とぼんやり思った。
了